令和5年「京都古典探訪」報告(1)

実施日:令和5年11月5~6日
参加者数:総勢14名
企画主催 文学文化舎

11月5日(日)(1日目) 
上賀茂神社へ
この時期の京都は、紅葉のシーズンにはまだ遠い。従って、観光客はどうにもならぬほどの多さ、というほどのこともなく、公共交通での移動も比較的スムーズである。
集合は、午前11時半、東西自由通路の「京なび」前。当日初めてお目にかかる方もおられたが、全員無事に集合。総勢14名のメンバーは、まず上賀茂神社へと向かう。京都駅から始発となる市営バスは、むろん全員着席することができて、窓外の風景を楽しみつつ揺れるのも心地よい。
上賀茂神社前に到着して、バス停のロータリー周辺が、以前とは見違えるように新しく整備されていたのには驚いた。こういったところが、「世界文化遺産」に登録されたことの結果なのだろうと思う。私の昔の記憶では、たとえば、下鴨に比べると、上賀茂への観光客は少なかったから、なんとなく、バス停のあたりももの寂しい感じがしたのである。しかし、その当時に比べると、ずいぶんとにぎやかになった、といつも思う。「世界文化遺産」という看板が存在すると、間違いなく観光客は増えるのである。観光が経済活動と密接に連動するものである以上、古都という名にふさわしい静謐な環境は、もう取り戻すことはできないであろう。
さて、上賀茂神社である。山城盆地の原点こそ、上賀茂神社であった。遥かに時は遡るが、ここが、古代賀茂氏の氏神として祀られたことは言うまでもなかろう。
古代山城盆地における賀茂氏と秦氏の存在こそ、今日の「千年の古都」の礎であった。盆地の北部山地に大量に降る雨が大量の土砂を運び、その堆積によって盆地が形成された。形成されつつ降雨は繰り返されるので、当然のことながら、その処理の問題があったであろう。つまり、河川の整備であった。その一方の役割を担ったのが、賀茂氏であり、秦氏であった。秦氏は、盆地の西、丹波方面から流れてくる保津川流域の治水に当たったと思われる。
賀茂氏が「神山(こうやま)」を重視したのは、このあたりに発生する雷雨の激しさがあったのではないか。集中して発生する雷雨は、一気に盆地の中央へと流れ出る。大量の水と土砂の流入を防ぐことが、山城盆地を活かすことであった。現在の賀茂川が、後に付け替えられたものかどうかは措くとしても、神山周辺に集中して降る豪雨に、人々は恐怖を感じたに違いない。ここに「雷神」を祀る理由があったのであり、畏怖と報謝に基づく「賀茂別雷大神」への信仰となった。

上賀茂神社の「権殿」
今回の探訪では、境内の「本殿」「権殿」の拝観と神職の方の解説が聴ける特別参拝は任意とした。有料であることと、メンバーの中には、すでに特別参拝は経験済みという方も複数おられたからである。
ところで、「本殿」が神の本来の座所であるならば、その隣にある「権殿」という建物は何なのか?という問題がある。これは、解説でも聴けることなのだが、式年遷宮(二十一年に一度修繕する)を行うにあたっては、神は「本殿」から一時的にお遷りになる必要があるということで、そういう意味での、仮の「殿」ということなのである。
この「権(ごん)」という漢字にはもともとそういう意味があるのであって、『日本国語大辞典』にも、次のような記述がある。

(実に対して)仮のもの。臨時のもの。

たとえば、古典文学によく出てくる「権大納言」や「権の守」などといった官職の「権」がそうなのである。わざわざ「もう一つの」官職(本来の官職の俸禄を伴ったようである)を作ったのは、増加する一方の貴族たちの不満の解消策でもあったが、当然のことながら、朝廷の財政は逼迫した。
そういう意味では、上賀茂神社の場合、「権殿」には、21年間神はいらっしゃらないということになるが、別の見方をすれば、壮大な無駄とも言えるような余裕が、山城国の一の宮としての格式というものなのであろう。
ただし、「賀茂別雷大神」の降臨は、雷である以上「神山」であって、この神社の場所ではない。人々の具体的な信仰の場所として、この地が選ばれ「本殿」「権殿」という形象になった。同じような事情が、この次に訪れる下鴨神社にもあるようである。